保健室の扉の前で、由依が突然足を止めた。

「どうしたの?」と問い掛ければ、表情を曇らせる。

これは、もしかしたら本当に何かあったのかも知れない。



「失礼します」



だから、そんな由依を半ば強引ではあったけど、保健室へと連れ込んだ。

生憎梨加ちゃんは席を外していたので、丸椅子に由依を座らせる。
由依の表情の僅かな変化も見逃さない為に、目の前に蹲み込む。



「由依、何かあったの?」

「…何もない」



そう言って私から視線を外す由依の声は、やっぱり掠れていた。
私から視線を外すという事は、何かあったという事を肯定している。

口では幾らでも強がりは言える。
でも、強がりを言えば言うだけ、身体は悲鳴を上げる。

それを、由依は分かっていないし、気付いていない。
いや、正しくは分かろうとしないし、気付かないフリをしているんだ。



「……由依、何もないのに、あんな時間に私や梨加ちゃんに電話を掛けてきたの?」

「…暇だったから…」

「今まで一度もそんな事で電話を掛けてこなかったでしょ?」

「……信じてよ…」

「由依の事は信じてるよ。信じてるからこそ、そんな嘘を吐いて欲しくない」



酷い事なのかも知れないけど、今の由依の嘘は全て見え透いているという事実を突き付けなくてはいけないと感じた。
だからこそ伝えてみれば、案の定、由依はその暗い目に更に影を増し、睨みを利かす。

ほら、そうやって唇を噛む行為だって、由依が嘘を吐いている事を教えてくれているんだよ。



「…知った口利かないでよ」

「そんなつもりはないよ。私は、由依の事はまだまだ知らない事の方が多いと思ってるよ」

「っ…。だったら、何にも知らないのにそんな風に言わないでよっ」



少しばかり声を荒げる由依。
それだけ、嘘を通し抜く事に必死なのだろう。



「気に障ったなら謝るよ。でも、由依はもっと自分と向き合うべきだよ」

「理佐には関係ないっ……」



叫ぶ様に言葉を放つ由依の目には、涙が溜まっていた。

好きな人の涙程、見ていてつらいものはない。

何か言葉を返さなくてはいけないとも思ったけど、今の由依はおそらく私が幾ら何を言った所で、聞く耳を持たないだろう。

そう思っていれば、保健室の扉が開く音と共に入って来たのは、梨加ちゃんだった。



「由依ちゃん、今の言葉は撤回しようか」



柔らかな物言いとは裏腹に、その語気は鋭利な刃物の様だった。
それに圧されてか、由依も肩を震わせる。

それでも、放ってしまった以上引けないのか、由依は弁解するつもりはない様子。
そんな由依を見て、梨加ちゃんは小さくため息を吐く。



「ごめんね、理佐ちゃん…。由依ちゃんに代わって謝るよ」

「気にしてないよ。……で、由依に何か話があるんでしょ?二人きりの方が良ければ、私、教室戻るよ?」

「ううん、理佐ちゃんにも居て欲しい」



梨加ちゃんは、由依と向かい合わせに座る。

一呼吸置いてから、梨加ちゃんが口を開く。



「由依ちゃん、マスク外してもらえる?」

「……」



渋々ではあったものの、由依は言われた通りにマスクを外す。

マスクが取られて顕となった痛々しい傷。
また殴られたのか、唇の両端は切れて黝み、赤く腫れていた。

梨加ちゃんは切れた唇を消毒液の染みたガーゼで手当てをする。
滲みるのだろう。由依は顔を歪ませる。



「……ごめんなさい…」



手当てが終わって、新しいマスクを梨加ちゃんに手渡されると、由依は受け取ってから俯いてしまった。
そして、突然の謝罪の意。

一体何の事で謝っているのかが分からずに、梨加ちゃんを見れば、梨加ちゃんは厳しい表情を浮かべていた。

状況が全く読めない…。



「…後、幾らなの?」



そんな私でも、梨加ちゃんの言葉ですぐに理解した。

由依の父親は、また薬に手を出したのだと。

由依を見れば、小刻みに身体を震わせていた。



「…今回は……一回で、終わった…」

「……由依ちゃん、もう辞めよう?警察に言お…」

「嫌だっ…」



梨加ちゃんの言葉を遮って、由依は否定した。

その否定と共に、溜め込んでいたものが痞えてしまったかの様に、由依の呼吸が乱れ始める。
嫌が応にも吸い続けてしまう酸素に、キツく目を瞑る。



「っ……」

「ごめんね…。大丈夫、大丈夫だからね…」



そんな由依を優しく抱き締めて、背中を摩ってあげる梨加ちゃん。


暫くすれば呼吸が安定して、その疲れに由依は眠ってしまった。
梨加ちゃんは由依をベッドに寝かせると、今朝の話をしてくれた。



「……由依ちゃんを見付けてから、公園に行ったの。もう朝方だったんだけど」

「うん」

「家で眠りたくなかったらしくて、公園に連れて行ったの。それでも、やっぱり眠そうだったから、膝枕をして眠らせてあげたんだ。その時にね、由依ちゃんから、あの時理佐ちゃんが嗅いだ匂いがしたの…」

「……」



一体どんな思いで、それを受けていたのか…。

私には知る由も無い。

理解はしてあげられても、同じ苦しみを分かち合う事は決して出来ないんだ。
自分の無力さを改めて気付かされる。その悔しさが、拳を固く握らせる。



「養護教諭として、やっている事は間違ってるのは分かってる。でも、由依ちゃんの尊重されない意思を、私は少しでも尊重してあげたいの……」



声を震わせる梨加ちゃんに、反対は出来なかった。
だって、私も由依の事を尊重したいから。
例え私達の行為が誤りなのだとしても、正しい行為で由依を本当の意味で救えないのなら、そんなものに意味はない。

梨加ちゃんの言葉に小さく頷けば、「ありがとう」と小さく溢す。



「じゃあ、私、教室に戻るね。また後で来るね」

「うん、ありがとう」



カーテンを閉めて、保健室の扉を静かに閉める。

それから襲って来る虚無感を振り払う様に、教室へと向かった。