愛佳ともんたから借りた傘のお陰で、殆ど濡れる事なく帰宅する事が出来た。
「…理佐、私…帰るよ…」
こんな状態で、よく言ったものだ。
抑、彼処で倒れていたのだって、疲労が限界に近かったからの筈。
今だって、立っているのがやっとな筈なんだ。
「…何処に帰るの?」
「え…」
「今の自分の状態分かってるの?」
「……理佐…?」
私を見つめる由依の目は、何処か怯えていた。
そして、少しだけ游ぐ事で交わらない視線。
お互いに黙ったまま見つめ合っていれば、玄関の扉が開く。
突然扉が開いたものだから、由依は肩を震わせ、すぐに振り向いて、扉を開けた人物を確認する。
「っ……あ…」
「由依ちゃん」
扉を開けたのは、お父さん。
丁度仕事が終わって帰宅した所という訳だ。
由依はお父さんと分かって気が抜けたのか、その場に座り込んでしまった。
ただ、どうしてか驚いた時のまま、呼吸は乱れていた。
びしょ濡れで、尚且つそんな様子の由依を心配して、お父さんが肩に手を置こうとした時だった。
「大丈夫かい、由依ちゃ……」
「嫌っ……!」
由依はお父さんの手を払い除けた。
お父さんを見上げるその顔は、怯えきっていた。
今迄に、お父さんに見せた事のない表情。
これにはお父さんも困惑していた。
それでも、お父さんは何かを察してか、靴を脱ぐとすぐに自室へと行ってしまった。
未だに身体を震わせる由依の肩にそっと触れれば、由依は勢いよく抱き着いてきた。
「理佐っ……理佐っ…理佐ぁ……」
「…うん、大丈夫。ここに居るよ…」
一種のパニックを起こしてしまったのだろうか…。
今迄にこんな事がなかったにせよ、パニックの起因となる出来事は多々ある。それも、十分過ぎる程に。
それでも、少しすれば落ち着きを取り戻してくれた様で、私の身体を抱き締める腕から力が抜ける。
「……落ち着いた?」
「…うん。ごめんね……」
落ち着いた由依をゆっくりと立たせてから、脱衣所へと連れて行く。
「シャワーだけでも大丈夫?少し待ってもらえれば、湯張りするよ?」
「…大丈夫…」
「……じゃあ、着替えは置いておくから、脱いだ物はいつも通り籠に入れておいてね?」
「うん…」
脱衣所を出てから間も無くして、浴室へと入る音がしたので、お父さんの部屋に向かう。
お父さんも頃合を見計らっていたのか、丁度部屋から出てきた。
「由依ちゃんは、大丈夫そうか?」
「うん…多分…。でも、お父さんの事を怖がった事なんて、今迄なかったのに…」
「…仕方ないのかもな。相当、酷い目にあっているんだろ…?特に、男の人には…」
「男の人……、あ…もしかして…、男性恐怖症…?」
お父さんは一瞬悲し気な表情を浮かべてから、小さく頷いた。
【 男性恐怖症 】という単語に、どうも納得してしまう自分が居た。
勿論、本当の所は分からない。
それでも、こうでもして自分を納得させない事には心を落ち着けられない。
「……あの………」
沈黙の時間が訪れたのも束の間、おずおずとお風呂から上がった由依が声を掛けてきた。
何やらお父さんに何かを言いた気な雰囲気。
お父さんは「どうしたんだい?」と、変わらず優しく返す。
その優しさが、由依にはつらいのか。将又、嬉しくてなのか。
由依は目を伏せてしまった。
「……さっき、は……、ごめんなさい……」
凄い震えた声だった。
怒られる事を恐れている子どもの様だった。
お父さんはそんな由依の目の前に立つと、表情を伺う為か、蹲み込む。
お父さんと目が合ったのか、由依の身体が小さく揺れる。
「…謝る事はないんだよ、由依ちゃん」
「………」
「寧ろ、謝らなければいけないのは、俺の方かも知れないな」
「……え……?」
「少しは、由依ちゃんの事情を知ってはいるつもりだったからね」
「………」
「さぁ、ご飯にしよう。由依ちゃん、風邪を引くと困るから、髪を乾かしておいで?」
その場の雰囲気を変えようとしてか、お父さんは少しだけ声音を上げていた。
まだ湿っている由依の頭に軽く手を置けば、先程とは違って、少し身体を揺らしたものの、手を払い除けられる事はなかった。
それから、三人で食事を済ませて、帰ろうとする由依を何とか引き留めて、今は私の部屋に居る。
由依は、カーテンが締め切られた窓から目を離す事なく、ずっと見つめていた。
「由依」
名前を呼べば、意外にもあっさりと此方に振り向いてくれた。
そんな由依に、ある物を手渡す。
「……え…」
「流石に暑いでしょ?いつまでもあれだと」
「…でも、……」
「無理に着なくてもいいよ。由依が今迄通りのを着たければ、それでいいよ」
私が由依に差し出した物。
それは、薄手のパーカー。
以前由依にあげた物は、どちらかと言えば冬物にあたる。
余計なお世話なのは分かっている。
それでも、由依の安心出来る場所を、少しでも作っていたいんだ。
だから、由依が受け取ってくれた時には、凄く嬉しいんだ。
「…ありがとう、理佐…」
由依の声は震えていた。でも、きっとそれは嬉しさだけじゃなくて、申し訳なさもあっての事だ。
「どういたしまして」
そう返せば、それでも少しだけ頬を赤く染めてくれた。