松ちゃんのアイデアのブログ 

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いろんな洞察や気付き、発想や考え方などを紹介しています。考え方の載ったカタログ的なものになればと思い、多くの考え方などを紹介していければと思います。それを生きるかどうかは自分で決めてみてください。

こんにちは。


今回のテーマは自信についてです。


人は時々自信を失くします。


あったはずの自信を失ってしまいます。


それは若い頃のものかも知れませんし、ついさっきまであったものかも知れません。


でもよく考えると、自信はあるからこそ失くせるのであって、


それは元々自信があった証拠でもあるのです。


ないものはなくす事など出来ません。


自信はあるからこそ失くすことが出来るのです。


ではその自信の作者とは誰でしょう。


自分でふ。


そう自分でその自信を作ったのであり、体は自信のあった状態を無意識に覚えているのです。


改めて自信とはなんでしょう。


自信は文字通り自分で信じる力のことではないかと思います。


自信を自分を信じる事だと定義している人がいるとは思いますが、


自分を信じることではなく、自分で信じる事だと思います。


それが自分に向けば自分を信じる力になり、


他人に向けば他人を信じる力になると思います。



自信とは自分で信じる力だと思います。


自分から信じる。


自分発信で信じる。


自分が源になった信用。


後ろ盾のない信用。


多くの人が根拠のない自信をあてにしたり、評価しない気がします。


でも自信の前に、それを信じる根拠がある自信は、もし根拠がなくなった時、自信の後ろ盾を失ってしまいます。


つまり自信より根拠によって作られた、二次的な後ろ盾のある自信になると思います。


一方、根拠のない自信というのは、根拠とは関係のない、根拠よりも先にある自信と言う事になると思います。


根拠に影響されない自信になると思います。



では、何故人は自信を失ってしまうのか。


一つは信じた結果が出なかった。


信じた理論や予想が外れた。


信じた能力が発揮できなかった。


自信を否定されたり傷付けられたり操作された。


自信に対する価値を奪われた。


裏切られた。


競争に負けた。


他人と比較して劣等感を感じてしまった。


などでしょうか。


よく自信のある人を見ると自分の自信への信頼を失い、その人と戦ったり、争ったりする事で、


再び自信を確認したくなる。


そんな時があると思うのですが、


自信を失った事による競争心から


自信を取り戻すためにレースを行ってしまうと


抜け出せない争いの螺旋に突入してしまうのではないかと思うのです。


でも何故そのような事が起きてしまうのか。


それは自信の根拠が自分にではなく、他人との比較や、

他人より強いとか優れているとか賢いとか容姿が良いとか豊かだとか、


比較による優越感に根差したものである事が挙げられると思います。


つまり自信の根拠が他者との比較であり、その根拠がなくなる事で、自信も失っている状態と言えると思うのです。


つまりそれは自信ではなく、他信。


他人からの評価や比較によって生まれる、


自分が作った自信ではなく、根拠が先にある、他者由来の自信と言えると思うのです。


それは信じるという背後に、根拠があり、純粋な自信ではない、二次的な自信と言えるのではないかと思うのです。


もちろん信じてくれれば嬉しいですが、その自信の生みの親は他人なので、


自分の作品ではないので、いずれは力を失う自信。


新たに自信をもらわないと力を失ってしまう自信。


自分以外の人から供給してもらわないとなくなってしまう自信。


と言う事になり、絶えずそれを失わないように努めたり、より多くの自信をもらおうとしてしまう気がします。


それは、ある種の本当の自信ではないのです。


自信もどき。


自信のふりした他信。


主体性のない自信。


枯れていく自信。


発電してない自信。


と言えるのではないかと思うのです。


では本当の自信とはどう言うものを言うのでしょうか。


それはあなたがこの世に生まれた時に持っていた自信、


生まれながらに最初から持っていた自信、


手に入れようとする前からある自信


それが本当の自信であり、


当然根拠などない自信なのです。


人はたった一人でもその人の事を信じる存在がいれば大丈夫だと言われます。


自分を信じてくれている存在がいるだけで、その人は強くなれます。


自信とはそれを自分で行なっている状態なのです。


自分の自信を自分で作り出せている状態です。


力を産み続けている自信です。



生きた自信であり、自分で作り出している自信です。


人は元々自信と共に生まれてきました。


生まれた時に、自信のない人はいません。


あれ?オレ生まれてよかったんですよね?えっだめなの?どうなの?なんて人はいないと思います。


それは生まれながらに持ってきた本来の自信であり、


生きている自信であり、生きている事で生まれる自信だと思います。


自信のある状態と言うのは、自分のエネルギーを自分で作り出せている状態と言えると思うのですが、


自信のない状態、自信を失った状態とは自分のエネルギーを自分で作り出せてない状態と言えると思うのです。


どれだけ自信を持つことの重要性が求められているのかお分かりいただけると思います。



そもそも信じるとはどう言うことなのでしょうか。


人は何かを信じなければ生きていけない生き物だと思うのです。


それが良い事であれ悪い事であれ、必ず何かを信じていて、


何かを信じないで生きる事は出来ない生き物ではないかと思うのです。


何も信じてないと言うのは、何も、作ってないのと同じではないかと私は思うのです。



例えば、成功を信じるのも、失敗を信じるのも、誰かを信じるのも、また疑う事ですら、


人の持つ「何かを信じる力」を使っていると思います。


疑いは信じていないのではなく、悪い結果を信じているだけで、失敗への信仰とも言えると思うのです。


疑われる事が心地よくない理由もそこにあると思います。


疑いが自信を打ち消すのは、どちらも何かを信じる力を使っているからだと思います。


そして何を信じても何を信じなくても、本人の自由なはずなのに、


何故ある人にとってはそれを信じたり、


ある人は信じなかったりする現象が起きるのでしょう。


それは結局は何を信じるのかは、自分で決めているからだと、思います。


そう言う意味では信じるとは決心でもあり、


信じる事を決めた決意でもあると思うのです。


もちろん洗脳や伝統、教えや社会的な常識だからと言う理由でそれを信じる事はあっても、


それを信じる事を決めているのは自分であり、


信じると言う行為もある種の決心の一種だと思います。


つまり、信念の本質は決意にあり、それを信じると決める事で信念が成立すると思うのです。


つまり何を信じるのも自由な世界で、信じるとは決心であり、決心によって現実を作っている状態が、信じている状態だと言えると思います。


そして、信じると言う行為には創造性があり、決心を使って、人は新しい現実を作り出していると思うのです。


決めた事が叶うこの世界で、


生きる上で大切なのが、現状の把握と未来の創造ではないかと思うのです。


事実を知り、次にどうすれば良いのかを考える。


生きる上でとても大切な作業の一つに、


現実を直視し、新たな希望を叶えると言う二つのものがあるように思います。


信じると言うのは、新しい現実を作り出す作業にあたり、過去を変えれる作業になると思います。


信じると言う行為は、過去とは違う世界を作り出し、流れを変えれる、新しい流れをその時点から作り出せる、前列や過去に関係なく、新しい現実を作り出す事が出来る力になると思うのです。


でも、世の中には他人に自信を持たれたくない人達もいると思いますを


自立されたり、自信を持たれたくない人は、その人から自信を奪ったり、自信を手放させたり、操りやすいように操作コントロールする人もいると思うのです。


自信を独占したい、独り占めしたい。


自信には創造性があると言いましたが、



何かを作ると言う事は、別の見方をすれば、古いものを壊すと見る事も出来ます。


つまり、作る事は破壊性を含んでものいるのです。


人々が自信を恐れる理由も、そこにあると思います。


そう言う意味での臆病さなどから、自信を持たせないための様々なトラップのあったりする世界で、


再び自信を取り戻すことが急務であり、求められていると思うのです。


自信のない世界を手放し、自信のある世界にする事が求められていると思うのです。



では一度失われた自信はどうすれば取り戻せるのでしょうか。


失くしたものはどうすれば良いのでしょうか。



それは作り出す事によってです。



自信の本質は決心はあり、


決心には力がありエネルギーを生み出し覚悟を作り出し、そして現実を創造して行く。


自信は創作行為であり、自分で自分のエネルギーを作り出せている状態。


自分で自分を作っている状態。


自分で発電する力を持っている状態。


源が自分にある状態。


と言えると思うのです。


そしてもしその自信を失ってしまった時には、


なければ作ればあるのです。


決意によって。


取り戻すと決めてしまえばよいのです。


いつかきっとでもいいし、そのうちでもいいと思います。


生まれ変わってでもいいし、何億年かかっても、何京年かかってもいいじゃないですか。


必ず取り戻すとまずは決めてください。


星だって五十億年すれば、ゼロから作れるんです。

決心してみてください。


必ず取り戻すと。



それがオーダーになり、注文になり、その現実が動き出します。


どうやれば取り戻せるのか、どんな方法で取り戻せるのかは具体的に知る必要は必ずしもないのです。

その料理の作り方や材料、材料の産地を知らなくても、


注文すればその料理を食べる事が出来るのと同じで、


まずは注文が必要です。


注文する事で未来の運命の歯車が動き出します。


もちろん注文したものが必ずテーブルに運ばれると決まっているわけではありません。


何かしらのトラブルに巻き込まれたり、事情で、料理がテーブルに運ばれてこない事はあると思います。


けれどもお店に入って、何の注文もしなければ、料理が運ばれてくる事はまずないと思います。


いらっしゃいませ。何にしますか?と聞かれて、ダンマリを決め込んでも料理は運ばれてこないのと同じで、


まずは注文をする事がお客さんのする必要のある事であり、責任にあたると思うのです。


自信を取り戻すと決める事がこの注文と言う作業になります。


注文したら、待つ。


タイムラグのある世界では、注文から配達まで、アホみたいに口を開けて待つ時間が必要になります。


種を植えて、まだかなまだかなと土を掘り返さないで。


楽しみに待つ。


ワクワクして待つ。


他のことをして待つ。


創造して待つ。


とにかく、決心すれば自信を取り戻す運命の歯車が動き出し、

いつかきっとでもいいので、必ず取り戻すと、決めてしまえば、


自信は必ず取り戻せると思います。


決心はプログラムとして働き、設計図の役割をします。


取り戻すでは不安な人は取り戻し続けると決めてみてください。


無意識に書き込まれた決意は、半自動的に繰り返すと言う性質を利用して、


もし、もうその決意を手放したい時には、そう信じるのをやめる

と、決めれば良いのです。


決心をしたのが自分なら、決心を変えるのも辞めるのも自分です。


自信をなくせるのは過去にその自信を持っていた証拠であり、


作ることを再開するだけなのです。


自信を失っている状態と言うのは自信を止めている状態。自信の歯車を、止めている状態。一時停止しているだけなのです。


自信を取り戻すと言うのは、


止めていた自信の歯車を再始動させるだけであり、

再び自分を、取り戻し、自分に帰るだけであり、


レシピはあなたの中にすでにあるのです。


根拠に、依存しない純粋な自信を再び再始動してみてください。


ただ信じる。


対象のない自信、結果を必要としない自信


純粋なまじりっけのないただの自信。


それは存在している自信であり、生きている自信、存在そのものが持つ自信なのです。


命の持つ自信であり、


在る自信なのです。


最初からあった自信なのです。


本当の、自信は持つものではありません。


あなたこそが自信なのであり、


あなたの正体が、自信なのであり、


あなたの本質が自信なのです。


持ち物ではなく、あなたそのものなのです。



自信とはあなたであり、


自信から全てが始まります。


あなたの正体であり、



あなたなのです。



そして、

自信は神の決心であり


星とは自信で生まれ


宇宙は、自信の、表れ、投影なのです。


自信とは自分への決意であり、


愛でもあり、愛もまた決意なのです。


自信は愛の別の呼び方であり、


あなたの本質は自信のある愛でもあるとも言えると、思うのです。


あなたから始まります。


決心から始まります。


あなたが作者であり、


あなたが源なのです。


主体であり、始め心であり、


根源なのです。




しんは信でも神でもあり、


神を知る事も、神知る(しんじる)、


自分の中の神を信じる行為も


自分の中に神を持つ事も


自神を持つ事なのかも知れませんね。




知らんけど。


ばいばい

ありがとうございました。