本作の驚きは、自分がヒロインのコット(Cáit)の目線で映画を鑑賞できた事。当たり前に思うかもしれないが、「赤毛のアン」では全く違った。2作は国や時代、血縁の有無等相違点も多いが、少女が(ほぼ)初対面の家庭に預けられるという点は似ている。アン(Anne)はやたらお喋りな孤児で、ありふれた景色も耽美に表現したり、自分の空想を大仰に語る。幼少期に観ていた筈のアニメもほぼ覚えいていない。恐らく高畑勲監督と同様に、アンの気持ちを全く理解できず、感情移入できなかった為と思われる。高畑氏は自身の解釈を加える事ができず、原作に忠実にアニメ化せざる得なかったが、それが却って評価されている。しかし、大学生で観た再放送にはハマった。自分の視点がいつのまにか育ての親のマリラやマシューに移ったせいで、物凄く感情移入しやすかった、
 一方で、本作コットでは少女の気持ちに寄り添えた。理由は彼女が原題の「An Cailín Ciúin」(The Quiet Girl)通り、静かな少女だったからだろう。自分も大勢の前では自己主張できないタイプで、クラスでの集団生活が苦手だった。孤立する状況も淋しいどころか、楽に感じた。幸い長男だったので家族内では孤立しなかったが、コットの立場なら同じ疎外感を感じたかもしれない。なので、コットが伯父にショーン(Seán)と次第に打ち解けていく様は嬉しかった。寡黙な彼女がラストシーンで囁く言葉は感慨深い。ただその人にそう言わざる得ない状況は真の幸せではないかもしれない。彼女があの家庭で、何とか少女時代を生き抜けることを心から願ってならない。

P.S. 基本、登場人物はアイルランド語で会話するが、しばしば不意に英語が混ざる。一方、TVとラジオは明確に英語。鑑賞後にアイルランドの言語事情を調べて納得したが、それが気になって若干気が削がれた。