ウェス・ボール監督、オーウェン・ティーグ(ノア)、ケヴィン・デュランド(プロキシマス)、フレイヤ・アーラン(ノヴァ)、ピーター・メイコン(ラカ)、エカ・ダーヴィル(シルヴァ)、リディア・ペッカム(スーナ)、トラヴィス・ジェフリー(アナヤ)、サラ・ワイズマン(ダー)、ラス=サミュエル・ウェルド・アブズギ(ライトニング)、 ウィリアム・H・メイシーほか出演の『猿の惑星/キングダム』。

 

300年後の地球。荒廃した世界で人類は退化し、高い知能と言語を得た猿たちが地球の新たな支配者として巨大な帝国「キングダム」を築こうとしていた。若き猿ノア(オーウェン・ティーグ)は年老いたオランウータンのラカ(ピーター・メイコン)から、猿と人間の共存についての昔話を聞かされる。ある日、ノアは人間の女性(フレイヤ・アーラン)と出会う。その女性は野生動物のような人間たちの中で誰よりも賢いとされ、猿たちから狙われていた。彼女と一緒に行動することになったノアは、本当の人間を知るうちに、キングダムに違和感を抱き始める。(映画.comより転載)

 

本作品とこれまでのシリーズのネタバレがありますので、ご注意ください。

 

リブート版三部作の完結篇であった2017年公開の『猿の惑星:聖戦記 (グレート・ウォー)』から7年ぶりのシリーズ最新作。

 

 

一応、あれからお話は続いていて、今はなきエイプ(猿)の英雄“シーザー”は伝説となって子孫たちに語り継がれている。

 

これまでのシリーズを観ていなくてもストーリーは理解できるし楽しめるように作られてはいますが、映画の中で語られるシーザーがたどったエイプと人間たちとの共存や戦いの歴史を知っておくと、より深く入り込めると思います。

 

僕は『猿の惑星:創世記 (ジェネシス)』(2011) から始まるリブート版「猿の惑星」三部作が好きで、数あるリブート(再起動)モノとしてはもっともよくできたシリーズだと思っています。

 

で、3年おきに続篇が作られて綺麗に完結したそのシリーズのさらなる続篇が新たに作られたということで、果たしてそれはどうなんだろう、蛇足にならなきゃいいが、と少々不安もあったんですが、すでに観た人たちの評判もいいし、楽しみにしていました。

 

ただ、これよりちょっと前に公開されて現在も上映中の『ゴジラxコング 新たなる帝国』がいろいろとこの映画とカブってて、こちらは「王国」であっちは「帝国」かい、と。さすがに内容や上映時期が重なり過ぎだろ、とは思った。

 

猿の話ばっかいいよ、俺はそんな猿大好き人間じゃないんだから、と。

 

まぁ、両作品を観比べてその違いを楽しんだらいいんだし、実際、ハリウッドのVFX大作映画でもこんなに違うんだ、という面白さはあった。

 

あちらが巨大生物たちが暴れまわり闘う超脳筋な「怪獣プロレス」なら、こちらは等身大のエイプたちが、かつて高度な文明を持っていながらそれを失い、今では劣った生き物として彼らに見下されている“人間”の存在とその歴史を知り、エイプとして生きながらえるために学んでいく、という話で、アクション・アドヴェンチャー的な要素はふんだんにあるけれど、単に主人公が悪役を倒す、というだけではないドラマがある。

 

だから観てよかったですが、ただし、前の三部作に感じたような驚きや意外性、作品としての面白さ、この先どうなっていくんだろう、という興味は(続きが作られれば観るつもりですが)そこまで強くは覚えなかったな。あくまで個人的な感想ですが。

 

お話がちゃんと終わってないまま映画が終了してしまったような。

 

あのエンディングには僕は若干ポカンとしてしまったので。えっ、これで終わり?って。

 

これまでの三部作がそうだったように、この『キングダム』も続きが作られても不思議ではない終わり方になっています。

 

ラストで望遠鏡を覗いたノアとスーナは、空のかなたに何を見たのだろう。

 

 

 

もしかしたら、今後はチャールトン・ヘストン主演のオリジナル版のように宇宙が描かれたり、あるいは「時間を超える」ような展開もあるのかもしれませんね。

 

ルパート・ワイアット監督(『創世記』)とマット・リーヴス監督(続篇2本)によるリブート版三部作もそうだったように、この『キングダム』も主人公はエイプだし、映画の視点はエイプたちの目から見た世界なんですよね。

 

もともとオリジナル版の最初の1作目は人間が主人公で人間側から見た猿の世界だったのが、次第に主人公を猿のキャラクターたちが担うことになっていったのとよく似てますが、これはVFXの進歩のおかげもあるんでしょうが、リブート版ではエイプたちの生態をじっくり描くことが多くなっていって、今回の最新作ではもはや人間はほとんど出てこない。

 

エイプ対人間ではなくて、エイプ同士で支配したり、支配されたりする。

 

エイプたちの芝居だけで物語を作る、というのはなかなか挑戦的な試みではあるし、確かに映像的な見応えはあった。

 

『ゴジラxコング』が大味なCG映像のオンパレードだったのに対して、こちらではエイプや、ノアたち“イーグル族”が卵から育てて調教している鷲たちなどがフォトリアリスティックに映し出されていて、人類の文明が崩壊して何百年も経った世界がまるで本当に目の前にあるような錯覚を起こさせる。

 

 

 

 

久々にVFX映像にじっくりと見入った。異世界を観ている、という感覚があった。

 

なので、それだけで観る価値はあったし、繰り返すように、もしさらに続篇が作られれば観にいきますが、一方で物語の方は、劇中で登場する数少ない人間(“エコー”と呼ばれる)の一人であるノヴァ(本名メイ)が何を考えているのか、彼女の真の目的は?という興味で観続けさせてはくれるものの、どうも釈然としないところもあって。

 

メイ役は『ガンパウダー・ミルクシェイク』でカレン・ギランの少女時代を演じていたフレイヤ・アーラン

 

“エコー”は劣った生き物、とされているけれど、途中で出てきてエイプの王プロキシマスの部下たちに捕らわれるたくさんの彼ら(って、そのあとあの人たちどこ行ったんだっけ)は原始人っぽい衣服を身に着けているし、特にメイはシャツやパンツ姿がどう見ても文明を持った存在で、そんな彼女がエイプよりも下等だとは思えないから、何か隠し事があるに違いないんだけど、散々引っ張っておいてオチはあれなの?って。

 

ここで言おうとしているのは、どうやら「人間は信用できない」ということのようで。

 

本当は言葉を喋れるけど喋らず、エイプのことも信用しなくて(最後にノアに会いにきた時にも銃を隠し持っている)、だから自分の本当の目的については話さない。そんなメイに、ノアは「君は自分のことだけを考えている」と言う。

 

エイプは群れの仲間たちのことを考えて、みんなのために働き、闘うけれど、人間は違うということか。

 

でも、最後にメイの目的は地球上に散りぢりになった同じ人類の仲間たちと連絡を取り合うために必要なハードディスクを手に入れることだったのがわかる。

 

人間は人間で仲間たちと協力し合って生きていたということ。

 

この映画が言わんとしていたのはどういうことなのだろう。

 

ウィリアム・H・メイシー演じる人間のトレヴェイサンは、人間の群れから離れて、自らを初代長老であった「シーザー」の名を継ぐ者だと称するプロキシマスのもとで、彼のお抱えの教師、道化役を買って出ている。

 

そして、プロキシマスの作った王国の中のサイロにあるモノを入手して逃げるつもりのメイを邪魔しようとする。

 

 

 

そのために彼女はトレヴェイサンを絞め殺す。

 

「エイプはエイプを殺さない」というシーザーが掲げた掟を知ったノアたちは、人間による同族同士の殺し合いを見て呆然とする。

 

だけど、すでにプロキシマスたちによる同族の殺戮は経験してるわけだから、人間が人間を殺す様子を見て彼らが立ち尽くす意味もよくわからないんですよね。

 

メイが何考えてるのかよくわかんないように、トレヴェイサンも彼の狙いがよくわからない。単に強い者に従うことを良しとする男だったのか、それとも何か人間に失望していたのか。人間同士のドラマが始まる前にあまりにあっちゃり殺されちゃうので。

 

オランウータンが知恵者のキャラクター、というのはこれまでのシリーズを踏襲しているけれど、ノアに英雄シーザーのことを教えたラカもまた、水に落ちて溺れるメイを助けて彼自身はプロキシマスの忠実な部下で獰猛なゴリラのシルヴァ(めっちゃ凶暴な彼の暴れっぷりはキングコングも凌駕するほどで最高だった)にロープを切られて絶命してしまう。

 

 

 

 

寒さに震えるメイに温かい毛布を渡してあげることを勧めるラカの優しさをこそノアは受け継いで、またその大事なことを最後にメイに伝えた、ということだろうか。

 

ごめんなさい、僕の理解力不足なのでしょうが、ところどころ、どうも登場人物たちの心情が掴めなくて。

 

プロキシマスは、あのサイロの中に自分たちの進化を速めてくれる知識や武器があると知っていて、それを手に入れようとしているんだけど、メイが手に入れようとしていたのは先ほど述べたように遠くの場所と通信するための手段だった。

 

言葉を失った人類が、それを取り戻すことが可能になる、ということだけど、最初に出てきたあの原始人みたいな“エコー”たちの姿と、ラストに登場した文明の利器を使いこなす人間たちがあまりに異なっているものだから、なんで退化してしまった人々とそうでない人々がこんなに明確に分かれているのかわからなかったし、この映画では馬で移動する場面が何度もあるんですが、ラストのあのパラボラアンテナがある施設もそうだけど、それぞれの場所の距離感がいまいちわかんないので、馬でしばらく移動したらあんなふうにすぐにエイプの同族と出くわしたり人間たちが住んでる場所にたどり着けるんなら、通信衛星が使えなくても旅すればそのうち出会えるんじゃないの、と思ってしまって。

 

 

 

退化していたはずの人間が今と変わらないほどの文明を保ち続けていた、というのはこの「猿惑」のシリーズでは驚きの展開なのだろうけれど、なんかあまり伝わらず。

 

映画を観ただけでは、僕はこの作品に込められたメッセージやさまざまなメタファーをしっかりすくい取ることができなかった。

 

悪役であるプロキシマスのキャラクターは面白かったです(登場するのはかなり後半になってからなんですが。なかなか出てこないから観てて心配になった)。

 

 

 

『ゴジラxコング』のあのハゲのエテ公がただ暴力で同族たちを支配していたのに対して、この映画のプロキシマスは頭がよさそうな者を味方につけようとしたり、人間から歴史を学ぼうとしたり、ただ力ずくなだけではなくて相手を懐柔しようとするんですね。悪知恵が働くし、そのあたりがとても「人間っぽい」。

 

それでも、相手が自分の命令に従わないと知ると、最終的には暴力的な手段でねじ伏せようとする。これも人間の戯画のようだし、もっと言えばどっかの大国っぽい。

 

結局は自分のために他の者たちを犠牲にしようとする。

 

そして、そんな「偽りの王」は、ノアが唄い、それに合わせて他のエイプたちも唄いだした鳥使いの歌によって集合した鷲たちの攻撃で命を落とす。

 

 

 

大勢の「声」が圧制者を倒した。

 

英雄シーザーの死で幕を下ろした『聖戦記』のあとにどういう物語が続くのだろう、と思っていたけど、三部作の最終作の公開から3年後にはコロナウイルスによってパンデミックが起こり、多くの犠牲者も出して、世界や僕たちが住むこの国は今も不安定な状態が続いている。

 

この『キングダム』はコロナ禍と深刻な不況の続く世界で作られた映画で、だからこの7年間の“歴史”もまた反映されているんでしょう。偽りの「王国」は打倒されて、本当に人々のための社会が作られなくては。

 

↓とても参考になった解説。特にメイについての説明は、なるほど、と思いました。

 

「言葉を発しない」のが知能が低かったり劣っているからではなくて、言葉を発することができないワケがあるから、という新しい理由付けは「今」ならではの視点だし、それが「女性」にかかわるというのも、たとえば朝ドラ「虎に翼」が描いていることと通じるものがありますよね。

 

ノアの母ダーはプロキシマスに捕まって「従うしかない」と言っていたし、ノアの幼馴染でメイからも「彼女のことが好きなのね」と言われるスーナもまた、暴力で支配する者たちに余計な口答えはしないようになっていた。

 

「猿の惑星」の物語を女性の視点で描く、というのはとても興味深いと思います。恥ずかしながら、映画を観ている最中には僕にはそれがわからなかったのですが。

 

 

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