映画『ホットギミック』から。


 『ホットギミック ガール ミーツ ボーイ』(山戸結希監督、主演・堀未央奈) 、Blu-ray版を買って、本編、ヴィジュアルコメンタリー、舞台挨拶…全部みた。

 いい映画だった。恋愛映画だと言われるけれども、まぁ確かにそうだけれども、私は恋愛がテーマというより、嘲笑、嘲りの眼差しの中にさらされ、自分を縛り付けていた一人の少女が、自分の顔を、声を、身体を、自分のものとしてとりもどしていく映画だと思う。
 助走期間、主人公「初(はつみ)」(堀未央奈)をめぐる状況はめまぐるしく変化し、「初」の心は大揺れに揺れるが彼女自身の変化は受動的で外部からのものだった。しかし、終盤にかけて「初」は内側から爆発的に変化していく。「卵は内側から破られ」なければならない(ダグラス・ラミス)。その過程は筋道をたてて考え、一つひとつ選択し、変わっていくというようなものではない。時間の流れは切断され、跳躍し、ほとばしる言葉は食い気味に畳み掛けられていく。連続的ではなく、断絶と飛躍の中で自分自身を取り戻すことが、これほどの爆発力を生み出すのかと眼を見張る。「初」自身を含めて、誰にも制御できないエネルギーが「初」=堀未央奈から放出されていく。

 堀未央奈の卒業発表に衝撃を受けている人、飲み込めていない人は、『ホットギミック』を、見たほうがいい。ちゃんともう気持ちの整理はついているという人も、昨年、公開時に見たという人も、いま、見たほうがいい。すでに映画をみた人も、『冷たい水の中』を見た後ではたぶん、『ホットギミック』の見え方が変わるし、『冷たい水の中』の見え方も変わると思う。そこにはもうすでに「乃木坂46の堀未央奈」はいないから。


 『冷たい水の中』は『ホットギミック』の撮影場所で撮られたのだろうか。少なくとも山戸結希監督ははっきりと意識的に『冷たい水の中』に『ホットギミック』の映像を差し込んでいる。

 この2枚の画像はほぼ同じ場所だ。
 
 映画『ホットギミック』(山戸結希監督)

 
 『冷たい水の中』に挿入されている映像。


 
 そしてこれは『冷たい水の中』に挿入されているリハと思われる画像。

 

 

 これらは3枚はすべて豊洲(『ホットギミック』の撮影場所)ではないかと思う。少なくとも山戸監督は非常にはっきりと『ホットギミック』と『冷たい水の中』を結びつけて映像作品を作り上げている。 『ホットギミック』で新しい堀未央奈が誕生し、乃木坂46からの卒業を告げるために、『冷たい水の中』をつくるために、その誕生した場所に戻ってきた。そういうことなのではないだろうか。


 『ホットギミック』で堀未央奈は、役を演じたというよりも、主人公「初(はつみ)」を、あるいは作品そのものを生きた。それはもう演技が上手いとか下手だとかということをこえて次元で、堀の存在に響いてしまうように「初」と、『ホットギミック』とシンクロし、その作品を生きたのだと思う。先回りして言えば、堀未央奈は『ホットギミック』、「初」をいまも生き続けている、あるいは、堀の中に「初」が生き続けているように思える。
 この映画をみて堀未央奈が卒業するのは必然的で、なされるべき選択だったんだと思えた。そして『冷たい水の中』でもまた堀未央奈はその作品世界そのものを生きているのだと思う。あるいは「堀未央奈」という存在の、その時の断面を作品化するとこうなるのか、とも思える。
 『ホットギミック』で堀未央奈の中に眠っていた?まだ存在していなかった?そんな「乃木坂46の堀未央奈」ではない、新しい堀未央奈が目を覚まし、歩きはじめた。その新しく生まれでた堀未央奈が「乃木坂46 堀未央奈」を飲み込んでいったのだろうか。
 2年後、再び『ホットギミック』の現場となった場所に立ち戻り『冷たい水の中』をつくりあげる。

 『ホットギミック』の後半にこんなやりとりがある。
 「バカでごめんなさい。」
 「それなら、最後に俺んところに帰ってきてくれたらいい。ずっと待ってる。」
 「自分のこと、待てないんだ。私が、私自身を追いかけたいの。」

 ヴィジュアルコメンタリーで堀は、このこのセリフを「すごい好き」だといい「このセリフをはじめてきいて、そこからずっと染み付いている」という。
 「自分のこと、待てない。私は、私自身を追いかけたい」。もう『ホットギミック』の「初」の言葉なのか、いまの堀未央奈の言葉なのか区別がつかない。これをそのまま『冷たい水の中』の「もっと冷たい水の中へ」という言葉の前に差し込むことだってできる。

 『ホットギミック』の一つのセリフが堀の中で響きつづけ、その言葉を抱きしめながら生きてきた。たぶんそんな言葉はこれだけではないだろう。『ホットギミック』の「初」はおそらくいまも堀未央奈の中に生き続けているのだろう。
 『ホットギミック』と『冷たい水の中』は地続きにみえる。『冷たい水の中』の堀は『ホットギミック』の「初」に見えてくる。そのように2つの作品を堀未央奈は生きている。こうした作品に出会うことがどれほど幸せなことなのか私にだって多少は想像できる。望んで得られる出会いではないと思う。堀未央奈や山戸結希監督の資質、原作・脚本の良さ、そうした一つひとつの要素を揃えても、きっと『ホットギミック』と堀のような関係は生まれない気がする。そこには作品と作品を生きる役者を生み出す特別な構造、絶妙な関係があったのではないかと思う。


 作品が誰かにとって決定的な転換点になるといっても、ここではキャリアの出発点になったとか、その作品で名が知られるようになったとか、ではなく、その人の存在のあり方が変わってしまう、そんなことが起こったのだと思う。一つの生を生き抜いた果てで人は大きく変貌するものだ。
 『ホットギミック』は堀未央奈にとって「良い作品にめぐりあえましたね」というような水準のものではなかった。もっと存在の根っこに突き刺さり、響き続ける、特殊な作品だったと思う。作品と堀、監督と堀の、すべてのキャスト、スタッフ、原作との、とても特殊で親密で共振してしまうような関係が生み出した作品であり、その世界ではないだろうか。

 ヴィジュアルコメンタリーは「初」役の堀未央奈と「茜」役の桜田ひよりで撮影されているが、こんな会話がある。


 堀「ものすごい長台詞だけど、初を演じていて、タイムリーですごくほしい言葉が監督からもらえるからすごい覚えやすかったかも。」
 桜田「茜の言いたいことを私が発しなくても汲み取ってくれて。私にしか言えない言葉って考えてくれるのがすごく… あまりコミュニケーションと言うか、自分の想いを伝えなくても監督とは通じ合ってるなっていうのは、すごく感じてた。」
 堀「すごくわかる。」
 桜田「だから監督といると自然と涙が出てきちゃって話している最中、号泣したりした。」
 堀「監督としてもそうだし、人としてもそういう人と出会えるのって人生のうちになかなかないからさ。大きな出会いだった。」
 

 「タイムリーですごくほしい言葉が監督からもらえる」という堀がいうとき、堀は「初]自身になっている。堀は「初」として生きており、監督は「初」と対話し、その中から言葉を掴みだす。「茜」の桜田ひよりも同じことを言っている。「初」「茜」と山戸結希監督は会話をしながら共振し、そこから言葉を掴みだし、それをセリフとして返してゆき、演出をつける。そうして堀未央奈や桜田ひよりは、自分の言葉として「初」、「茜」の言葉を話し、その時間を生きていく。
 

 山戸結希監督からみても現場での堀未央奈はそのまま「初」に見えていたと監督自身が語っている。
 公開時には山戸結希監督と堀未央奈はインタビューにこう答えている。


 堀「台本を読んだ時も、演じている時も、“この気持ち、ちょっと私には理解できないな”という瞬間が一切なかった。わかりすぎて、どうしていいかわからないという悩みの方がありました」
(その悩みはどう解決していきました?)
 堀「私のモヤモヤを監督はキャッチしてくれて、いつも手を差し伸べてくださるので、とても救われていました」
 山戸「今も、すでにカットがかかっているけれど、初の気持ちについて話す時は、初の気持ち……その液体の中に自然と入っているんですよね。現場でも初の気持ちと一緒になってズンとなっていたりしていたので、ずっと初だと思って接していましたし、男の子たちもそうだったんじゃないかなと思います。みんな、それぞれが自分のロールプレイに没入していた。堀さんは、3人の男の子といるとき、それぞれの男の子の前で全く違う顔を見せるんです。だから、堀さんには3人の男の子じゃなくて、初として、亮輝くん、梓くん、凌くんに見えているんだなと感じて。毎シーンがフレッシュで、撮っていて高揚感がありました」
インタビュー「堀未央奈(乃木坂46)×山戸結希監督」 Deview 2019/06/26


 つまりあの「ON・OFFが激しいと思います」という堀が、カットがかかっても「初」であり続けたわけだ。堀自身、撮影期間は「初として生活する」と述べてもいる。

 

 堀が「初」そのものだったことは映画の中の言葉にも跳ね返っていったのだろう。映画のセリフはどんどん変更され、あるいは加えられていったと堀と桜だがヴィジュアルコメンタリーで話している。作品自体が、堀未央奈や桜田ひより、そして山戸結希監督とその関係性の中で生き物のように成長していったのかもしれない。山戸結希監督自身も「初」「茜」の息遣いを感じとることで言葉・セリフを生み出していったのだと思う。そして最初、無口で引っ込み思案で自分の身体と言葉をもたなかった「初」が身体と言葉を爆発させていく。身体と言葉だけじゃない。自分自身の感覚そのものをとりもどす。そのときに発する熱量、激しく飛沫を上げながら懸け下る激流のような速度と激しさ。それが「初」の内部に収まりきらずにその身体を通して空間に放射するように解き放たれていく。それが「初」=堀未央奈自身のものでもあるような構造が作り出されていたのかもしれない。


 そして大切なことは、この作品が最初から堀未央奈にぴったりに描かれていたわけでもないということかもしれない。いわゆる「あて書き」ではない。外側に見えている堀未央奈のために造形され、用意された作品ではなかった。けれどもその作品は堀の内部に眠っていたものと直接に響きあい、接続していく。そして「初」とともに堀未央奈が深いところから塗り替えられていったと思う。

 こういう監督のインタビューがある。
 山戸「(堀未央奈さんは)陽としての華やかな世界を生きながら、きっと彼女の世界にも冷凍保存されてきた10代の時間があって。その10代の陰を映し出す時間をこの作品に注いでくれたんですね。陰影を含めて、青い時代を走りきったみたいな感慨がありました。」

 「冷凍保存されてきた10代の時間」「10代の陰」が映し出され、作品として形象化された。そのことで堀は「乃木坂46の堀未央奈」が生きられなかったもう一つの時間を「初」として生き直し、解き放ったのではないだろうか。しかもそれは必ずしも堀未央奈にとってだけのことではなかった。「堀さんが演じた初ちゃんは17歳でした。今、振り返ってみて、…“17歳”というのはどんな年齢でしたか?」という問いに「10代の頃の想いというものが、この『ホットギミック ガールミーツボーイ』に満ちていて。本当に一歩歩くだけで、一言発するだけで傷つくような、ヤバい感受性があったなって思います。それが、この映画で成仏するというのか、一つ一つ、点と点を繋ぐように、力強く手放してあげられたのだと思いますね」
(https://deview.co.jp/Interview?am_interview_id=760&am_view_page=2&set_cookie=2)

 おそらく山戸結希監督自身が、この『ホットギミック』を撮ることを通して、「初」や「茜」たちと感応しながら10代を生き直し、一つの決着をつけたのだろう。

 このように、監督・演者が呼応しあい、響きあい、作品を通して10代を生き直した。そして堀は「乃木坂46の卒業」という決着の仕方に向かって進んでいくことになる。




 それにしても映画初出演が初主演で、こんな作品に出会うなんてそうそうあるものじゃないと思う。
 当時のニュースは「乃木坂46のエース、堀未央奈が映画初主演」というようなトーンだった。けれどもそんなトーンで語られるべき映画ではない。むろん「アイドル・堀未央奈」のイメージがぴったりだからという脚本でもない。そういうものだったら堀の中に眠っていたものが揺り動かされ、目をさますようなことにはならないだろう。確かに山戸結希監督は乃木坂46やNGT48のMVを何本か撮っている。秋元康のグループアイドルと縁があるし映画撮影は大きな資金が必要だから興行的な問題もある。けれども山戸結希監督は乃木坂46だからということで堀未央奈を主演にしたわけではないはずだ。

 『ハルジオンが咲く頃』のMV撮影で山戸監督と堀は出会うが、その時のことを山戸監督自身が次のように述べている。

 「こんなにも周りの環境に流されずに、自分の足で立って頑張っている女の子がいるんだなと感じましたし、“あ、自分は見たんだ。監督として、見逃しちゃいけないな”とすごく思ったんです。」
 「撮影は二日間だけでしたが、堀さんの真摯さが言葉にせずとも伝わってきて、存在が刻み込まれていました。いつかまたお会いするのかもというイメージが漠然とあった中で、今回の『ホットギミック ガールミーツボーイ』が動き始めた時に、『主演はぜひ、堀さんで』と私から名前を挙げました」と山戸監督からのラブコールだったと明かした。
山戸結希監督、堀未央奈主演抜擢への想いを明かす「堀さんの真摯さが言葉にせずとも伝わってきて、存在が刻み込まれた」 Oricon 2019-06-28)


 「”あ、自分は見たんだ。監督として、見逃しちゃいけないな”とすごく思った」
 「存在が刻み込まれていました。いつかまたお会いするのかもというイメージが漠然とあった」
 この言葉はとても重い。「あ、自分は見たんだ」という言葉の響き。何か運命的な、宿命的な響きすらある。二人は「見てしまった、出会ってしまった」、それをなかったことにはもうできないような、そんな出会をしてしまったのだと思う。
 おそらくそれは堀未央奈の側にもあったのかもしれない。『ハルジオンが咲く頃』のMV撮影以降、彼女は山戸結希監督の作品を見にいっている。


 そしてこの出会いも、さまざまな偶然や苦しいことも含めた歴史の積み重なりをとおして堀未央奈自身が引き寄せたものでもある。
 もしも7th『バレッタ』でセンターに抜擢されていなかったら、堀はもっとのびのびと乃木坂46の活動をしていただろう。『悲しみの忘れ方』のラストで言われているように、堀が『バレッタ』以降の苦境の中で乃木坂46をやめていた可能性だって決して小さくはなかった。逆に、12th『太陽ノック』、13th『今、話したい誰かがいる』で選抜から外れアンダーメンバーになっていなかったら、14th『ハルジオンが咲く頃』の堀未央奈がまとっていた空気はまた違っていただろう。あるいはセンターから2作連続で選抜を外れる状態になることで腐っていたりしたら、ただ喜び勇んで浮かれていたら、撮影が山戸結希監督であったとしても印象に残りはしなかったかもしれない。


 これまで『冷たい水の中』と卒業発表をどうしても「乃木坂46・2期生 堀未央奈」の文脈に縛られて考えてきた。『嫉妬の権利』『大人への近道』をふくめて、『バレッタ』『ハルジオンが咲く頃』『アナスターシャ』『ゆっくりと咲く花』とならべて『冷たい水の中』を繰り返し聴いてきた。乃木坂からの卒業なのだから乃木坂の文脈で考えるのは当然といえば当然なのだけれども、『アナスターシャ』・『ゆっくりと咲く花』から『冷たい水の中』の文脈はあまりにも大きな断絶があり脈絡がみえなかった。「2期生ライブを、堀の卒コンとして実現するための捨て身の作戦なのか?」とすら思った。
 けれども『冷たい水の中』は明らかに『ホットギミック』の延長線上にある。『ホットギミック』ですでに新しい堀未央奈が生まれていた。乃木坂46から堀未央奈を見ているだけではもう堀未央奈はみえないところに進んでいた。

 堀がいまどう考えているのかはわからないけれども、この堀の卒業はひょっとすると乃木坂46にも新しいページを開くものになるかもしれないとも少し思っている。堀は、生駒里奈・西野七瀬・白石麻衣の作り上げてきた乃木坂46のメインストーリーの中心的な登場人物であるけれども、同時に、乃木坂46のアナザーストーリーの主人公でもある。そのストーリーはアンダーのものとも違うし、他の2期メンバーとも違っている。
 20%のやり残したことがあると堀は言っている。これからの乃木坂46の活動はその20%をやり遂げることに費やされるだろうが、そのプロセスに9thBirthday Live・卒コン・2期生ライブがある(と思っている)。
 望みうることなのであれば、『ホットギミック』の終盤で見せた「初」の爆発的なエネルギーの燃焼と高熱を、自分の顔と声と身体をとりもどした姿を、乃木坂46のライブのなかでみてみたい。アナザーストーリーの主人公が生み出す爆発的なエネルギーと熱量は、まったく新しい乃木坂46の物語の始まりになるかもしれない。


 17歳で乃木坂46に加入した堀未央奈の11月27日のブログにこんなフレーズがあった。

 ”私の青春は間違いなく乃木坂46 だったし
 乃木坂46 に入ることができて本当によかったです
 すごくラッキーガールだなと思います”

 そして『ホットギミック』、17歳の「初」。
 「17歳の橘亮輝くんに会えて私はスーパーラッキーガールだったよ。」

 

 このセリフを一つの起点にして「初」は怒涛のように自分を解き放っていく。


追記

 

この写真は『冷たい水の中』のラストに差し込まれているもの。これまではMV撮影終了時のものかと思っていたけれども違っていた。『ホットギミック』のオールアップのとき、山戸結希監督から渡された花束を抱えた2018年の堀未央奈だった。ついさっき気がついた。

 


映画『ホットギミック』のメイキング映像から。

手前が山戸結希監督。

 

2018年10月19日『ホットギミック』、クランクアップ。