グレタ・ガーウィグ監督、シアーシャ・ローナン、ティモシー・シャラメ、フローレンス・ピュー、エマ・ワトソン、エリザ・スカンレン、ローラ・ダーン、クリス・クーパー、ジェームズ・ノートン、ルイ・ガレル、メリル・ストリープ、ジェイン・ハウディシェル、ボブ・オデンカーク、トレイシー・レッツほか出演の『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』。2019年作品。

 

音楽はアレクサンドル・デスプラ。

 

第92回アカデミー賞衣裳デザイン賞受賞。

 

原作はルイザ・メイ・オルコットの自伝的小説「若草物語」とその続篇。

 

1860年代のアメリカ・マサチューセッツ州コンコード。父親(ボブ・オデンカーク)が従軍牧師として南北戦争に参加しているため、母(ローラ・ダーン)と家政婦のハンナ(ジェイン・ハウディシェル)とともに女性だけで生活しているマーチ家の四姉妹の次女“ジョー”ことジョセフィーン(シアーシャ・ローナン)は、作家を目指して物語を書き続けている。やがてニューヨークで暮らし始めたジョーの脳裏に浮かぶコンコードでの家族との思い出。それは慎ましくも喜びに溢れた日々だった。

 

映画の内容に触れますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

レディ・バード』の監督と主演コンビ再び。

 

去年、『ファイティング・ファミリー』の主演であるフローレンス・ピューのフィルモグラフィを確認したところ、この映画のタイトルがあって、彼女がシアーシャ・ローナンやエマ・ワトソンと姉妹役で共演する、と知って楽しみにしていました。

 

また、映画評論家の町山智浩さんの作品紹介でもとても高く評価されていたので心待ちにしていたところ、コロナ禍のために公開延期でガッカリ。それでも三ヵ月遅れでようやく上映開始となったので観にいってきました。とりあえず今月はこの映画だけは観ておきたかった。

 

恥ずかしながら、僕は「若草物語」の原作小説を一度も読んだことがなくて、また子どもの頃にやっていたTVアニメシリーズ「世界名作劇場」の1本「愛の若草物語」も、四姉妹の外見は記憶にあるものの全話通して観てはいないのでほとんどその内容を覚えていません。

 

同じくアニメ版の「赤毛のアン」と頭の中でゴッチャになってるところもある。ジョーもアンもアニメでは同じ声優の山田栄子さんが声をアテていたから、というのもありますが。「アン」の方は舞台はカナダだし時代も異なるけれど、どちらも主人公が文章を書くのが得意、という共通点がある。

 

映画の方も、これまで何度も映像化されたものを1本もちゃんと観ていなくて、90年代にウィノナ・ライダーがジョーを、また子役時代のキルステン・ダンストがエイミーを演じたヴァージョンも公開当時にその作品の存在は知っていたけど、未鑑賞。

 

だからほとんど初めてこの物語を知るようなもので、それは新鮮である一方、原作を知らないが故の戸惑いを感じるところもあった。

 

特に今回の映画は劇中でめまぐるしく時間が前後するので(場面によって三女のベスが病気だったり元気だったりする)、しばらくは物語が追えず、なんだかダイジェスト版を観ているような感じでなかなか映画の中に入り込むことができなかった。

 

過去の映画版を観ていたり原作を読んでいる人なら「あぁ、あの場面ね」とわかるかもしれないけど、時代が細かくシャッフルされてるような作劇にじっくりと物語を味わうことができなくて、なんとももどかしかった。

 

姉妹の(特にジョーと四女のエイミーの)髪型や服装でなんとか現在と過去の場面を判別できたほどで、実家での回想シーンとの切り替わりが結構激しいので彼女たちがそれぞれ今どこにいるのかもパッと理解できず、マーチ伯母さん(メリル・ストリープ)に同伴してヨーロッパに行っていたためにエイミーがベスの死を知らなかったことなど、事情に気づくまでに少々タイムラグが生じてしまったのでした。慌ただしく現在と過去が行き交うクドカン(宮藤官九郎)のドラマが苦手な僕には、同様の手法で撮られたこの映画は若干難易度が高かった。

 

セルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』やヴァージニア・ウルフの小説を例に挙げているかたもいて、なるほどなぁ、と思ったけど、これからご覧になるかたがいらっしゃったら、この時間が激しく前後する演出のことは前もってある程度意識しておいた方がいいでしょうね。

 

それでも次第に主人公のジョーだけでなく他の姉妹たちのエピソードも挟まれることで、これがジョーがコンコードの懐かしい日々をいつくしみながら自分の夢のために未来に進んでいく姿を通して、どんな人生でもそれぞれがかけがえのないものなのだ、ということを伝えているのはわかったから、監督の自伝的な現代劇だった『レディ・バード』と重なるところもあって、ちょうど映画のラストでジョーと結婚するフレデリックの視点で僕はこの映画を観ていました。

 

マーチ家の濃密な家族関係が描かれる一方で、フレデリック(ルイ・ガレル)は自分には家族がいないことを会話の中で語っているし、ローレンス家の跡取りであるローリー(ティモシー・シャラメ)も両親はすでになく、ジョーと知り合ってマーチ家の人々と付き合い出す前は友人もおらず、大きな屋敷で祖父(クリス・クーパー)とともに孤独で退屈な生活を送っていた。

 

彼女たちの存在はまわりの人々にとっても輝いていて、マーチ家は「理想の家族像」として憧憬の眼差しで眺められてもいる。誰もが彼女たちのように仲睦まじく暮らせるわけではない。個性豊かな姉妹たち。優しい家政婦。慈善活動に従事し、小説を書くジョーを温かく見守って姉妹の模範となる母。離れていても家族から慕われ、その帰りを待ち望まれる父。

 

 

 

 

そのような家族像が嫌味っぽく感じられないのは、それが「家族はこうあるべき」という押しつけではなくて、ひとつの「幸せの形」として控えめに表現されているのと、幸せなことばかりではなくて生きていくうえでの経済的な大変さにも言及されるし、「別れ」もちゃんと描かれているから。

 

血が繋がっていてもいなくても、人は愛し合ったり労わり合えることも。

 

正直なところ、やがてメグの夫となるブルック(ジェームズ・ノートン)はもともと大金持ちのローレンス家でローリーの家庭教師をしていたにもかかわらず、結婚したらどうして彼ら一家があんなに貧しい生活をしなければならなかったのかよくわからなかったり(ローレンス氏はどうして彼らを援助しないのだろう)、やはり親戚で一家とも繋がりが深いマーチ伯母さんもまた亡夫の遺産がたくさんあってヨーロッパに旅行するような余裕があるのに、マーチ家に対して経済的な援助をあまりしていないようなのが不可解で。

 

 

 

まわりがみんな貧しいわけじゃなくて、お金がある人たちが身近にいるんですよね。だから、近所のあばら家に住む極貧家庭や息子たちを全員戦争にやって生活に困窮している老父への施しなどが、どこかで茶番めいたものにも見えてしまって。だったら金持ちたちがそういう苦しんでいる人々を率先して助けるべきだろう、と。

 

これは150年前のお話だから現在とは福祉についての意識だったり、あるいは「平等」の概念が異なっていたのだろうし(でも貧富の差は今もあまり変わっていないような気がするが)、たとえ親戚だろうとご近所や知り合いであっても甘えられない、自分たちのことは自分たちでなんとかするんだ、という独立精神に基づくものなのかもしれないけれど、釈然としないんですよね。

 

一方で、マーチ家の姉妹たちは本当の貧乏人ではなくて、当時としてはある程度恵まれた環境で生きていたからこそ(家政婦だって雇えているのだし)、ああやってそれぞれの個性が尊重されてジョーのように自分の夢を追う自由が与えられたのだともいえる。家族全員が飢えに苦しむような生活だったら、そうはいかなかっただろうから。

 

浮世離れしたお金持ちでもなく、飢え死にしそうなほど貧しくもない家庭、というのは、現在の一般家庭の姿に通じるものがあって、だからこそ現代に生きる僕たち観客もこの映画の中に入っていけるんですね。監督のグレタ・ガーウィグもまた、かつての自分自身を原作者のL・M・オルコットとその分身である主人公のジョーに重ねている。

 

 

グレタ・ガーウィグ監督

 

一見すると現在の世の中とは関係のない19世紀の家庭の小さなお話のようでありながら、現代の世相を反映しているようなところもあって、ローラ・ダーン演じる母“マーミー”は奴隷制の存在する「この国を恥じていた」と言うし、黒人女性が黒人差別のことを語ったりもする。ニューヨークでジョーが立ち寄ったビアホールでは黒人の男女が白人たちと一緒にダンスをしている。

 

エイミーが学校で他の生徒たちとやはり奴隷制の是非について語っていたりもする。

 

これらは、映画の作り手があえてマーチ家の人々に反黒人差別、反奴隷制を謳わせたのではなくて、原作者のオルコットとその家族や周囲の人々がそもそもそういう考えの持ち主だったから。

 

とても現代的な感覚を持っていたんですね。

 

また、ベス(エリザ・スカンレン)が猩紅(しょうこう)熱に罹って苦しんだり、回復するもののやがて亡くなってしまう展開にはどうしても現在のコロナ禍が重なってしまう。

 

もちろん、この映画は新型コロナウイルスが世界中で蔓延して今のような状況になる以前に撮られたんですが、南北戦争が背景にある「若草物語」は、アメリカの黒人差別に対する抗議運動が行なわれ、また国民の分断が懸念されている現在、まさにタイムリーな内容になっているんですね。

 

最近、『風と共に去りぬ』(1939)が南部の奴隷制を肯定的に描いているとして動画が一時的に配信停止になって話題になっていますが、同じ南北戦争の時代を舞台にしながら「風と共に~」が批判されて「若草物語」が新しく映画化されて絶賛されているというのも実に興味深い現象。

 

作品と時代は繋がっているんだなぁ、と思いますね。

 

そして、コロナ禍によって「家族」というものをあらためて問い直されている今、このような映画が公開されていることは、とても大きな意味があると思う。

 

僕がこの映画に好感が持てたもう一つの理由は、マーチ家の父親は牧師だし、当然一家はキリスト教を信じてもいるのだろうけれど、都合よく「神」を利用していないこと。せいぜい「神のご加護を」という台詞がある程度。ベスの病気の回復を母親が手を合わせて祈っている描写はあるけれど、神はベスの命を救わないし、そのことで家族が神を責めることもない。

 

ベスの死は美化されることもなく(死の瞬間も描かれないし)、ただ彼女が生きていた時の思い出がジョーのペンによって綴られ、家族にとってベスがどれほど大事な存在だったのかが彼女たちの言葉からうかがえるだけ。

 

 

 

人生も運命も自分たちが自分たちの責任で引き受けるもので、神の存在に左右されない。

 

僕はオルコットの原作は読んでいないから、もともと原作の小説に神への言及がほとんどないのか、それともガーウィグ監督があえてその要素を削ったのかはわかりませんが。

 

オルコットの人生を振り返ってみると、安易に「神頼み」したりせずになんでも自分でやろうとする自立心の強い人だったのだろうな、と思います。だって、神様に祈ってるだけでは小説は書けないし、作家にはなれないから。自分の手で書き、原稿を持って編集部を訪ねる行動の人。

 

 

 

ジョーは相手が金持ちの伯母さんであろうが男性であろうが自分の意見をハッキリ言って態度で示す。

 

ニューヨークの同じ下宿に住むフレデリックに自分の作品を「好きじゃない。いいと思わない」と酷評されたジョーは、「何様のつもり?」とブチギレて「あなたは人を批判するだけ。あなたの名前は残らない。私は大作家になる」と啖呵を切る。売れるために努力して書き上げてやっと雑誌や新聞に掲載された作品を貶されて激高するジョーと、それに対して冷静に反論するフレデリックの様子が可笑しいんですが、ジョーの「だったら、あなたが書けば?」という逆ギレはしばしばクリエイターが評論家にぶつけるもので、オルコットもガーウィグも同様に感じたりしているのだろうか、と思ったらなんか面白いな、と。

 

彼女たちはジョーの宣言通り、その才能と作品を世に認められたわけだから。その反面、小説の中のジョーは作家の道を諦めることになる。それは才能がなかったからではなくて、夫や子どもたちのために生きるという選択をしたから。原作者のオルコットは生涯独身だったのだが。

 

 

作家の才能があったジョーに比べて、エイミーは「三流画家になるぐらいならきっぱりやめる」と自らの絵の才能に見切りをつける。いかにもエイミーらしい物言いだけど、ここでも選ぶのは彼女自身なんですよね。貧しい暮らしを覚悟しながらブルックとの結婚を望んだメグもそうだったように、彼女たち姉妹は自分の意思で自分の将来を決めていく。

 

エイミーの隣で描いている男性の絵は“印象派”の画風。それを見たエイミーは同じ被写体を描いた自分の絵が古典的で凡庸な絵柄であることに気づき、絵画の道を諦める

 

男性からのプロポーズを受け入れるかどうかも、決めるのは彼女たち自身。誰からも強制はされない。そこがとても現代的ではある。

 

ティモシー・シャラメが演じるローリーは、ジョーにプロポーズして断わられてヘコんでると思ったら、そのあとちゃっかりエイミーに求婚してて「ヲイ!」と全力でツッコみたくなりますが、彼とマーチ家の交流を丹念に描いているからどこか納得もできちゃうんですよね。

 

 

 

 

 

エイミーの「好きな人の“2番目”は絶対にイヤ」という返答も、思いっきりローリーのこと「好き」だと告白しとるやないかい!とw なんかもう「キャ~(♡ >ω< ♡)」ですわね。

 

四姉妹を愛おしげに見つめるシャラメの瞳がまた切なげで美しいんだ。コンニャロめ!

Σ(゚∀´(┗┐ヽ(・∀・ )ノ 『レディ・バード』の時はなんだかスカしたイケ好かない男子を演じていたけど、今回はちょっとチャラめを装いながらも本当はジョーに対して湧き上がるほどの想いを抱いていて、それを涙ながらに告白する場面は、観ていて自分がティモシー・シャラメになったよーな気分に(とてつもなく身の程知らずな妄想)♪

 

で、プロポーズを断わったジョーは母の前でにわかに後悔し始めて、もう一度プロポーズされたらその時はオーケーしよう、と手紙まで書いて待っていたら、パリからエイミーと一緒に帰ってきたローリーが優しくジョーを起こして放った言葉は「エイミーと婚約した。あっ、サプライズだったのに言っちゃった!」というもの。お前っ!!

 

ローリーは、姉妹たちのそれぞれの心の中を代弁するような存在でもある(ベスだけはローリーの祖父のローレンス氏と心の交流を持つ)。ダンスパーティに参加したメグが友人から借りて着た綺麗なドレスをローリーが「派手過ぎて好きじゃない」と言うのは、メグが感じている家族への後ろめたさを表現してもいるのだろうし、エイミーに他の金持ちの若者からのプロポーズを断わらせたのも彼だ。

 

まぁ、ローリーだって金持ちの家の人間なんだから、都合がいいっちゃ実に都合がいい展開ではあるんですが。

 

もしもローリーがメグの夫ブルックのように財産もなく稼ぎも少ない男だったら、果たしてエイミーは彼のプロポーズを受け入れただろうか。

 

エイミーは、財産管理をしっかりやっててお金のことには細かいマーチ伯母さんの血を色濃く受け継いでいて(だからか、伯母さんからも気に入られる)、結婚について「愛」を強調するローリーに「女にとって結婚は経済問題」と答える(町山さんの解説によれば、この台詞はマーサ伯母さんを演じているメリル・ストリープの要望で付け加えられたのだとか)。とても現実的なんですよね。そして結局彼女はローリーと結婚するのだから、「愛」と「経済」の両方を手に入れたわけだ。

 

 

一方のジョーは自分の「夢」を求めてローリーのプロポーズも蹴るが、執筆した「若草物語」の著作権はけっして手放さない。それから「お金のために主人公を結婚させる」。ジョーはジョーでまた現実にしっかりと足をつけている。

 

 

ジョーと原稿のことでやりとりする編集者のダッシュウッド氏を演じてたトレイシー・レッツは、ガーウィグの前作『レディ・バード』ではシアーシャ・ローナンの父親役だったんだな。キャラが違い過ぎてて気づかなかった^_^;

 

子どもの頃はジョーとエイミーはしょっちゅう喧嘩していて、エイミーは腹いせにジョーが書いた大切な原稿を燃やしてしまったり、ジョーの方はそれで「一生恨んでやる!」と妹を無視してローリーと一緒に池に張った氷でスケートしていて、謝ろうと追いかけてきたエイミーが(案の定)割れた氷の穴にはまってズブ濡れになったり、なんとも騒々しいんだけど、彼女たちは清々しいほどあとに引っ張らない。すぐに反省して仲直りする。

 

 

あんなふうにいつでも素直でいられたら、どんなにいいだろう。彼女たちがあれほど素直でいられるのも、きっと互いに家族の間柄だからなんだろうけど。

 

母の前で自分がちっとも成長しないことを悔やむジョー。そして「人を傷つけるのが楽しい」とまで言う。ジョーが本当に人を傷つけることを楽しんでいるのかどうか映画を観ているだけではわからなかったけれど、確かに人は残酷な面があるものだし、性格はなかなか簡単には変えられない。

 

でも、自分とは違う価値観や生き方だって世の中にはあること──それをお互いに認め合い尊重し合うことができたら、少なくともその“違い”を知ることができたなら、人生の視野をより広く豊かなものにしてくれるのではないか。小説や映画にはそういう役割もある。

 

ルイザ・メイ・オルコットは自分をモデルにした女性を主人公にして、自分とは性格の違う姉妹たちの生き方も描き分けることで色とりどりの人生を作品の中に織り込んでみせた。

 

そしてグレタ・ガーウィグもまた、ジョーに原作者と自分を重ねて、ジョーがともに過ごした家族のそれぞれの人生を肯定していく物語として映画化した。

 

エイミーの「女にとって結婚は経済問題」という台詞があるから、これは誰と誰が結婚しました、めでたしめでたし、という甘いロマンスに終わっていないし、ジョーの「お金のために主人公を結婚させた」という言葉も現実をとてもシビアに見据えている。

 

ジョー自身はL・M・オルコットがそうだったように作家として小説を書き続けていく。まるで『ラ・ラ・ランド』のような2つのエンディング。1つは現実、もう1つは物語の中のフィクション。

 

それでも、これは「あり得たかもしれない人生」を“物語”の中に組み込むことで世界の可能性を広げてみせているし、何よりもあの結末のおかげで“物語”はさらに続いていくのだから、たとえ作者(オルコット=ジョー)にとっては不本意だったとしても彼女はちょうど編集者ダッシュウッド氏の娘たちのような世界中のLittle Womenにとって大切な「わたしの物語」を生み出したんだよね。それはけっしてジョーが不安がっていたような「役に立たない」ものなどではなかった。

 

そして、ジョー役のシアーシャ・ローナンが語っているように、これは女性だけでなく男性にとっても共感できる作品になっている。家族がいないフレデリックがその一員として迎えられたように、ジョーが作った子どもたちのための学校のように、マーチ家の人々は私たちを受け入れてくれる「ホーム」なんだろう。

 

これは、今求められている物語だと思います。

 

 

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