ニッポン哲学(4) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日3月21日は、2012年、「いいね!」が初収録されたさくら学院2011年度アルバムが発売され、ニッポン放送「ミューコミプラス」(惜しくも2021年3月25日で終了)に出演した日DEATH。

<2021年3月20日現在>                
PCR検査数    累積9,267,835     2月18日7,770,206     直近30日間1,497,629
陽性判定数    累積454,158     2月18日420,408     直近30日間33,750
死者数        累積8,790     2月18日7,196         直近30日間1,594
致死率        累積1.94%    2月18日1.71%        直近30日間4.72%
(データ元:厚労省「新型コロナウイルス感染症に関する報道発表資料」)

モノには作った人の魂が込められている。
だとすれば、製作した会社名や国名を隠して売るなど、それを設計し、デザインし、組み立てた人たちへの侮辱以外の何物でもないとぼくは思う。
かつて、国産ブランドのエレキギターのカタログには、OEM生産していた富士弦楽器、マツモク、寺田楽器、ダイナ楽器などの会社名が、小さな文字ではあっても、どこかに記載されていた。
現在は、アメリカのブランドでも国産ブランドでも、ミドルプライス以下の製品は、中国、インドネシア、マレーシア、フィリピンなどで生産されていることが多いが、会社名まで記載されていることは稀である。ヘッドの裏にMade in China、Made in Indonesiaといった国名がシールで貼られているだけだ。
これは悪いことだと思う。
食品ではトレーサビリティが叫ばれるのに、工業製品ではそれがない。
有名ブランドが、コピー品には目くじらを立てる癖に、自社ブランドのOEM先を明示しないのは、ダブルスタンダードではないか。
こういうことをおかしいと思わないのは、働く人、モノを造る人への敬意が欠けているからだと思う。
モノづくり、すなわち人間が自然に働きかけて何かをつくる行為を「労働」として抽象化し、資本主義国家においては、労働者は自分のためではなく「自分の時間を資本家に売り渡す行為」=疎外されていると考えたのは、またも出ました、諸悪の根源=共産主義の生みの親、カール・マルクスである。
労働の質を一切問わず、「同一労働同一賃金」という奇怪な「原則」も、マルクス主義労働運動の産物である。


モノを作ること、働くことは、本来、それ自体喜びである。
自分が作ったモノを買い、使ってくれるユーザーのことを想像しながら、少しでもより良いモノを作ろうと創意工夫するのは、楽しいことではないか。
あるいは、接客が必要なサービス業や営業職で、商品を介して顧客の暮らしや仕事の質をより良くすることで対価を得ることには、本来、喜びがあるはずだ。それが伝統的な日本の労働倫理だった。
ところが、こういう働くことの喜びを、「資本主義社会においては」と切り出し、「労働」=「資本家に搾取される時間」と矮小化したところに、マルクスの根本的誤りがある。
実際、「社会主義社会」だった旧ソ連・東欧諸国の労働者は、「資本主義社会」であるアメリカや日本の労働者以上に、まったくサービス精神がなく、ただ決められた時間だけそこにいて、決められた手順の「労働」をしているだけだった。創意工夫も、接客中の笑顔さえなかった。
そして、それが社会主義国の生産性が資本主義国に追いつかなかった原因となった。
働くことに喜びを見出せないのは、「資本主義社会」のせいではない。
「労働」とは「自分の時間を売り渡すこと」だと思い込み、自分が作っているモノやサービスに無関心な態度こそ、日常生活の大半を占める「働く時間」を無味乾燥にしてしまう根本原因ではないか。
もちろん、仕事の中には、人間的な感情を差しはさむことを許さず、機械の部品のように働くことを強要するものもあるし、雇用者が働く人を「労働力」としか考えない職場があることも知っている。
そういう職場で働く人は、「お金のために自分の時間を売り渡している」とでも考えない限り、アイデンティティを保てない。自分がそこで働く「意味」をいちいち考えていては傷つくばかりの仕事も確かにある。
だが、人間は労働を強制されず、酷い職場で働くことを拒否する権利があるというのが、近代の人権思想ではなかったか。
わが国では、憲法によって職業選択の自由が保証されているし、労働基準法等の法律で、非人間的な労働を強いることを禁じている。
キツイ仕事なのに信じがたい低賃金であり、かつそれ以外に選択肢がないなどということは、日本では原理的にあり得ない。
なぜなら、日本は資本主義国であり、雇用も需給の市場原理で動いているからである。強制労働あるいは奴隷的労働は、労働が市場化されていない全体主義国家だからこそ起こることである。旧ソ連の強制収容所や、中国のウイグル人強制労働はその典型である。


日本で、その職場以外に選択肢がないというケースは、例えば、労働環境が悪くても、他の仕事に比べて高給なので、生活その他の目的のために本人が敢えてその仕事を選んでいるというケース、あるいは地域・時間帯限定、ワークスキル不足など、自ら条件を狭くしている場合がほとんどだろう。子どものいる女性がフルタイムで働けない/働かないのは、せんじ詰めれば夫婦間の問題であり、個人の家族観やライフステージに応じて、さまざまな選択肢があってよい。
資本主義とは、モノの価値がすべて市場の需給によって流動することだから、地域や時間の限定を外し、自らのスキルを高めることで、その人の労働条件=労働市場における価値も変わっていく。
現代の日本では、地域や労働時間、スキルなどの条件を拡げて探せば、やりがいや喜びを感じられる仕事であって、かつ、必要十分な収入が得られる仕事は必ずある。
比較的低賃金でも残業がなく安定している職場もあれば、高給だが厳しく成果を問われる職場もある。
求人と求職のマッチングサービスも、ネット時代になってますます増えている。そのサービス自体も競争原理にさらされている。これはいいことだ。
だが、問題はまだ多い。
現在、日本の労働関連法規は、本来の日本的労働倫理と相反する「労働=時間」というマルクス的労働観をベースとして作られている。
それは、働くことへの積極性や、成果物のクオリティを数値化することが難しいためであり、労働者も経営者も国家も、勤怠・残業といった時間単位で、その「労働」が賃金に見合っているかどうかを判定するしかないからだろう。
厄介なことに、日本では、多くの会社が労働慣習としてボーナスや残業代を労働者に支払うべき収入に組み込んでいるため、武漢ウイルス禍で、リモートワークになって残業を減らされ、ボーナスも出ないとなると、たちまち生活に困窮するという事態が起こっている。
マンパワーが必要な業態の企業の「雇用調整弁」となっている非正規の時間給アルバイトでは、有給休暇や失業保険は適用されるが、根本的にシフトが減れば収入は激減してしまう。
さらにいえば、失業保険は、ある人が企業に雇用されつつ、副業として個人会社を持っていた場合には、たとえ会社に毎月保険料を天引きされていても、失業した際、1円も支払ってもらえない。
現代日本の労働法体系は、「時間の切り売りをする人=労働者」「事業主=資本家」というマルクス的労働観で貫徹されているのだ。
だが、こうした労働観ないし法規定の弊害がもろに露呈したのが、武漢ウイルス禍と「緊急事態宣言」だったのではないか。
ところが日本の主な労働組合は、「作られたパンデミック」の異常さに目を向けることなく、無意味な政府の「緊急事態宣言」やリモートワークや時短要請を無批判に受け入れた。
あまつさえ、連合を支持母体とする立憲民主党は「ゼロコロナ」という無知の塊のような政策を提言し、「緊急事態宣言」の無期限延長を主張した。
「緊急事態」が続けば、非正規雇用者がシフトを切られて収入がなくなることや、一般労働者がボーナスや残業代がなくなって困窮することは、旧来の「労働=時間の切り売り」という労働観を基本として、そういう給与体系を受け入れてきた労働組合にはわかり切っていたはずなのに。
要するに、武漢ウイルス禍は、19世紀にマルクスが考案した「労働=時間の切り売り」、「同一労働同一賃金」「労働者=時間単位で賃金を得る人」という労働観が、経済活動そのものが止まってしまう国家的危機には全く無効であることも露呈したのである。
では、どうすれば、さまざまな危機に柔軟に対応でき、喜びと収入を両立できる労働環境が形成できるのだろうか。
(つづく)